1923年、妻とカンボジアに出かけ、12月23日バンテアイ・スレイ寺院で許可なく人体のレリーフを移動したため、友人ルイ・シュヴァッソンとともにプノンペンで逮捕された。1924年7月プノンペンの裁判所でマルローは禁固3年、友人のルイは禁固1年半の判決を受けた。
無罪判決だった妻クララはいちフランスに帰国、知識人に救援運動を呼びかけた。アンドレ・ジッド、フランソワ・モーリアックらが署名運動を起こし、マルローは10月にサイゴンの控訴審で執行猶予1年に減刑、11月にフランスに戻った。
第2次大戦中の1944年にはゲシュタポに逮捕され、処刑直前にレジスタンスのメンバーに救出された。同年9月自由フランス軍のアルザス・ロレーヌ旅団司令官となり、ストラスブール防衛戦やシュトゥットガルト攻略戦に参加。この功績でレジスタンス勲章や戦争十字勲章を授与された。
戦後1945年8月自由フランス軍のシャルル・ド・ゴール将軍に出会って意気投合し、1945年11月から1946年1月にかけてフランス臨時政府の情報相に任命。1947年ド・ゴールのフランス国民連合に参加、広報を担当する。
ド・ゴールが下野していた1950年代には『芸術の心理』や『空想美術館』など芸術や美術に関する著作を発表。1958年6月、ド・ゴール政権成立によって再度、情報相となり、1960年から1969年にかけて文化相。この間、1965年に毛沢東と会見した。1974年に日本を訪れた。
『倒された樫の木』新庄嘉章訳,新潮社「新潮選書」,1971.
<パリ管弦楽団>
ドイツのベルリン・フィルに匹敵する国家を代表するオーケストラが必要、というマルローの推進により結成された。1967年、パリ音楽院管弦楽団を発展的に解消し、フランス文化省の大臣アンドレ・マルローと音楽局長のマルセル・ランドスキの要請により、シャルル・ミュンシュを首席指揮者に迎えて新たに設立された。
<フランス国立管弦楽団>(Orchestre national de France) パリ管弦楽団と並ぶフランスの代表的なオーケストラ。定期演奏会はパリのシャンゼリゼ劇場で行われている。
尚、名称が似通っているイル・ド・フランス国立管弦楽団(Orchestre national d'Île de France)や、同じくラジオ・フランスが管理・運営しているフランス(国立)放送フィルハーモニー管弦楽団(Orchestre philharmonique de Radio France)などと混同されがちであるが、両者とは設立当初から現在に至るまで全くの別団体である。
1934年2月18日、当時の郵政相ジャン・ミストラーの提唱により、フランスラジオ放送(RDF)専属のオーケストラとして創立した。当初の名称は、「フランス国立放送管弦楽団(Orchestre national de la radiodiffusion Française)」である。デジレ=エミール・アンゲルブレシュトを初代首席指揮者に迎えてスタートした。マニュエル・ロザンタールの時代である1948年、6週間のアメリカ演奏旅行をした。
1964年以降は「Orchestre national de l'ORTF」( ORTF=フランス放送協会)となる。1966年、シャルル・ミュンシュとジョルジュ・セバスティアンを指揮者として初来日した。1974年10月、創立40周年を迎え、セルジウ・チェリビダッケ指揮、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ独奏の記念コンサートを開催した。
1975年、ORTFの組織が7つに分割され、ラジオ・フランスに管理・運営が移管されるに伴い、「フランス国立管弦楽団(Orchestre national de France)」と改称。チェリビダッケを初の音楽監督に迎え注目されたが一年足らずで辞任し、その後は常任を置かずにレナード・バーンスタインやロリン・マゼールが中心となり精力的にその空白期間を埋めた。1977年にマゼールが首席客演指揮者に就任し、翌1978年にこのコンビで来日した。
(Wikipediaなど)
アンドレ・マルロー André Malraux(1901 - 1976) フランスの作家、冒険家、政治家。ド・ゴール政権で情報・文化相を務めた。代表作に『王道』や『人間の条件』。
1936年スペイン内戦が起こると義勇兵として共和国派に参加し、空軍パイロットとしてマドリッド攻防戦で二度負傷した。共和国軍の資金募集のために米国、カナダ旅行も行い、この経験をもとに1937年『希望』を出版した。この頃からジョゼット・クロティスと同棲し、1940年に妻クララとは離婚している。またこの時期、同じように義勇兵としてアメリカから参戦していた作家アーネスト・ヘミングウェーの知己を得ている。
1939年第二次世界大戦が勃発するとフランス軍に入り、戦車部隊の一兵士となったが、1940年に捕虜となり、脱走後、レジスタンス運動に身を投じた。1941年にジョゼットと再婚。ピエールとヴァンサンの2子をもうける。1944年にはゲシュタポに逮捕され、危うく処刑されるところだったが、レジスタンスのメンバーに救出された。同年9月自由フランス軍のアルザス・ロレーヌ旅団司令官となり、ストラスブール防衛戦やシュトゥットガルト攻略戦に参加した。この功績でレジスタンス勲章や戦争十字勲章を授与された。ジョゼットはこの年に事故で死亡。
1926年に最初の小説『西洋の誘惑』を書き、その後、1928年『征服者たち』、1930年にはカンボジアでの事件を基にした『王道』、1934年には上海における共産主義政権の崩壊を描いた『人間の条件』を書いて1933年にはゴンクール賞を受賞している。1930年代にはイランやアフガニスタンへの考古学調査にも参加し、ルイ・アラゴンとともに文化防衛のための国際作家同盟も設立した。
妻と