姉のオリビア・デ・ハビランド
(1916-パリ在住)

ロシア革命の前後の生まれ、自由主義を信望しロナルド・レーガン米国俳優組合委員長らと共同して俳優の制作会社に対する地位を確立した。人生の最終地にパリを選んだことに仏大統領サルコジがら感謝されている。

1934年に高校を卒業したデ・ハヴィランドは、サラトガ・コミュニティ劇場で上演されるシェークスピア原作の戯曲『真夏の夜の夢』の妖精パック役の出演依頼を受けた。この年の夏、オーストリア人演出家マックス・ラインハルトがハリウッド・ボウルで『真夏の夜の夢』を上演するためにカリフォルニアを訪れていた。ラインハルトの助手が偶然にデ・ハヴィランドの演技を観て興味を抱き、そのことを聞いたラインハルトが自身が監督する『真夏の夜の夢』の主役ハーミアの代役にデ・ハヴィランドを指名した。そしてラインハルトの『真夏の夜の夢』が開幕する一週間前に、ハーミア役の女優が映画の撮影のためにカリフォルニアを離れてしまったために、代役のデ・ハヴィランドがハーミアを演じることとなった。初日の公演でデ・ハヴィランドの演技は好評を博し、その後の4週間にわたる巡業公演でデ・ハヴィランドはハーミアを演じ続けた。この巡業中にラインハルトは映画会社ワーナー・ブラザーズから、ラインハルトの舞台版『真夏の夜の夢』の映画化が決またっという知らせを受け、ラインハルト自身が映画監督を担当することとなった。そしてラインハルトはデ・ハヴィランドに、舞台版と同様にこの映画でもハーミア役での出演依頼を申し出た。当時のデ・ハヴィランドは英語教師になるつもりで、秋には奨学金を得てミルズ大学に入学することが決まっていたが、ラインハルトがデ・ハヴィランドを説き伏せて映画出演を承諾させている。そして18歳のデ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザーズとの8年間の出演契約書にサインした

日本生まれの女優 Joan Fontaine
                               サンフランシスコで亡くなる

ジョーン・フォンテインJoan Fontaine, 1917年10月22日 - 2013年12月15日)は、日本で生まれた米国籍の女優。ジョーン・フォンテーンの表記でも広く知られている。両親ともイギリス人。1943年4月に米国籍を取得した。オリヴィア・デ・ハヴィランドは実姉。

父親が東京帝国大学で教授をしていたため、姉のオリヴィアと同じく、東京・虎ノ門で生まれる。自伝『No Bed for Rose』によれば、自宅は現在のホテルオークラ別館あたりにあり、自宅はのちスウェーデン大使館として使われた。現在は大使館の敷地の一部となっている。父ウォルターの甥は、デ・ハビランド・エアクラフト創業者、ジェフリー・デ・ハヴィランド。

ジョーンは虚弱体質で、2歳のとき医師に転地療養を薦められ、母とイタリアに向かった。だが、症状が悪化し、アメリカに渡り、カリフォルニア州のサラトガで育つ。1925年、8歳のとき両親が離婚

14歳のとき父が元メイドの日本女性と再婚したため、父を訪ねて再び日本に戻り、3年間滞在。アメリカンスクール・イン・ジャパンと聖心女子学院に通った。

健康を回復し、アメリカに帰国。1935年に舞台デビューし、同年にRKOと契約して映画にも出演するようになる。『風と共に去りぬ』の有名なスカーレット選びにも参加し、「スカーレットが無理ならメラニーでも」と猛烈に売り込みを図るも姉に奪われ、自殺まで考えた。]だが『レベッカ』の映画化を知り、プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに売り込み、同作のヒロインに収まった。

清楚な美貌とその震える肩で虐げられるメロドラマのヒロインを得意とした。しかし姉と親しかった男と結婚したり、計4度の離婚歴があるなど、エピソードにも事欠かない。1941年、アルフレッド・ヒッチコックのスリラー『断崖』でアカデミー主演女優賞を受賞した。

1941 断崖
Suspicion
リナ役 アカデミー主演女優賞 受賞 ヒッチコック監督


(wikipedia)