Fair is foul, and foul is fair.



 マクベスの知られた謎。
このセリフの見合う日本語は、こんなものではいかが、というのが最近の感慨です。

「綺麗な者はよごれ、よごれて、やがて美しくなる」


 ちょっとうがち過ぎでしょうか。賢兄姉のご批判を仰ぎます。



 アイリス・マードックという英国の作家がいます。オックスフォードの哲学の教授をしながら生涯で26編の長編小説を書いたブッカー賞作家です。

 マードックはルーツはアイリッシュですが、家庭のほんとうの団欒があれば、大学教授の職業や作家の仕事は、「それにまさることはない」という意味のことを書き残してします。社会的貢献や文学的業績などは人生の真のしあわせには役立たないという意味でしょうか。

 そのマードックの代表作の一つ、「天使たちの時」(原題The Time of Angels)の第5章から、ユージーン(Eugene Peshkov)というサブの主人公が登場します。サンクト・ペテルブルグの出身で、いまは英国に渡って執事のような仕事をしています。マードックは作家のドストエフスキーを深く敬愛していて、ユージーンの父親の名前を「フィヨードル」として、フョードル・ミハエルビッチ・ドストエフスキーから借りたのではないかと想わせます。

 このユージーンという名前は、意味深く、語源はたぶんロシア語の「聖愚者」юродивые(ユーロジーブィ)からきています。
ドストエフスキーの小説「白痴」(идио)の真の意味はこのユーロジーブィです。これは、日本語にはあてはまる「概念」も「言葉」もありません。

 純粋すぎて、常識人からは「白痴」のように見えてしまい、わが国では苦しまぎれに「聖愚者」と訳しました。ドストエフスキーの「白痴」は、「罪と罰」をしのぐほどの傑作ですが、四大長編小説の制作年代順からいくと、「罪と罰」の次に収まります。

 ラスコーリニコフ(罪と罰)が悩み抜いて、表から隠れたキリストの苦悩する姿なら、「聖愚者」の主人公ムイシュキンは、純粋なこころで人間を救おうとする、鏡のなかのキリストの現世的な魂です。

さて、シェークスピアのマクベスの第5幕5場で
    
       人生は「白痴」が語る物語

という表現が出てきて驚かされます。

ここの、「it is a tale told by an idiot」もほんとうは「聖愚者」と言うべきセンテンスなのでしょう。

 11世紀の英国もおそらく日本と同じで、聖愚者の概念も言葉もなかったのだと思います。その概念があるのは、たくさんのイコンが存在するロシア民衆の中だけだった、というのが私のこの頃の推論です。


 She would have died later anyway. That news was bound to come someday. Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow. The days creep slowly along until the end of time. And every day that’s already happened has taken fools that much closer to their deaths. Out, out, brief candle. Life is nothing more than an illusion. It’s like a poor actor who struts and worries for his hour on the stage and then is never heard from again. Life is a story told by an idiot, full of noise and emotional disturbance but devoid of meaning.

彼女(王妃)も、いずれは死ぬ身のうえ。
明日、また明日と、たしかな足取りで近よって、歴史の最後の一行にたどり着く。
消えていく、つかの間のともし灯たち。人生は壁の影にすぎず、生は、
愚かな聖者がかたる物語
その感情は、時におどろしく響くが、内容はただ猥雑で煩雑なだけ。そして、たいした意味もありはしないことを知っても、驚くには値しない。


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ゲーテの生きたドイツの言葉では、
Sie würdespäter sowiesogestorben.Das Nachrichtenmußteeines Tages kommen. Morgen, morgen, und morgen.Die Tagekriechenlangsam entlangbis zumEnde der Zeit.Und jeden Tag, das bereits geschehen ist, die Narrenhatsehr viel näher anden Todgenommen. Raus, raus, kurzeKerze.Das Leben istnichts weiter als eineIllusion.Es ist wie einschlechterSchauspieler,Strebenund Sorgenfürseine Stundeauf der Bühne unddannniewieder etwas gehört. Das Leben isteine Geschichte,von einem Idiotenerzählt, voller Lärm undemotionale Störungen, aber ohne Sinn


これはトルコ語です。
  Oneyse daha sonraölmüşolurdu.Bu haberbirgünbağlanmıştır. Yarınveyarınveyarın.Gün süresonunakadar birlikteyavaş yavaşsürünme.Veoldu zatenher günölümedaha yakınaptallaralmıştır. Dışarı, dışarı, kısamum. Hayat biryanılsamabaşka bir şey değildir. Budikmelerveendişeleronunsaat boyuncasahnedevesonra tekrarduydumaslakötü biraktör gibi. Hayatbir aptaltarafından anlatılanhikaye, gürültüdoluveduygusalrahatsızlıkfakat anlamyoksun


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また、白痴の冒頭では


-Ну,коли так,-воскликнув Рогожин,- совсем ты,князь ,выходишь юродивый , как ты, Бог любит!

「ほう、もしそうだとすりゃ」とロゴージンは叫んだ。「公爵(ムイシュキン)、お前さんはまったく、聖愚者みたいなものじゃないか。神様はお前さんみたいな者を、可愛がってくれるのさ!」

と、いきなりユーロジーヴィが登場します。悪漢ロゴージンがムイシュキン公爵をよびさす言葉です。民衆の中に概念があれば、インテリゲンチィアが言葉を選びます。最初に「言葉在りき」と語られるのは、そうした実在があってのことでしょう。







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