トランプの罪   2024/9/12

カマラ・ハリス氏対ドナルド・トランプ氏による11月の大統領選に米国民が釘付けになる中で、トランプ前大統領が起訴されているという事実がすっかり忘れ去られてしまった。民主党はハリス氏の元地方検事という肩書が、選挙の鍵を握る無党派層の記憶を呼び覚まし、トランプ氏という重犯罪者を見限り、元検事のハリス氏に投票するよう働きかけることを期待している。

 一方で、今回の暗殺未遂事件を受けて、遅々として進まない裁判が、あたかも殉教者トランプの復活に至る「十字架の道行き」の始まりだったかのように神話化されてしまった可能性もある。

起訴はトランプ氏の打撃にならず

 起訴は今のところ、トランプ氏の再選キャンペーンにダメージを与えることはできていない。ジャック・スミス特別検察官が2023年6月8日に提出した機密文書不正処理に関する起訴は、アイリーン・キャノン判事が根拠のない動議について審理を重ねるうちに行き詰まり、最終的にスミス氏の任命は違憲であるとして棄却された。


に、同じくスミス氏が提起した選挙妨害に関する裁判は、起訴状に記載されている行為の一部についてトランプ氏が免責特権を享受しているという最高裁の判決によって混乱に陥っている。また、ジョージア州の選挙妨害事件は、検察官のファニ・ウィリス氏が部下と恋愛関係にあったことが裁判所に知れ渡ったことで行き詰まりを迎えた。この事件は、ジョージア州控訴裁判所が同氏を解任すべきかどうかを検討するため、現在保留中である。

 これまでに起訴に成功した唯一の事件は、米ニューヨーク州マンハッタン地区検察官アルビン・ブラッグ氏が担当する詐欺事件で、ポルノ女優への口止め料を隠すために業務記録を改ざんした罪でトランプ氏に有罪判決が下った。

 皮肉なことに、この事件は4つの事件の中で最も弱いもので、懲役刑などの重い刑罰が科される可能性が最も低いものだった。この判決はトランプ氏の支持率には何の影響も与えず、むしろ政治的起訴と見て憤慨した有権者からトランプ大統領の選挙キャンペーンに寄付が殺到する結果となった。

挙げ句の果てには、合衆国憲法修正第14条3項の「反乱」条項違反を理由にトランプ氏の出馬資格剥奪を求める動きがあったが、最高裁判事9人全員が却下した結果、失敗に終わった。これらの一連の結果は、次期選挙でトランプ氏を正々堂々と打ち負かすことができない対立候補がトランプ氏に嫌がらせをするために法制度を悪用しているという強力な政治的主張の根拠を、共和党に与えることになった。

問われる道義的責任

 悪いことに現実はもっと複雑だ。トランプ氏は、要求された文書の提出を拒否することで、機密文書訴訟を起こすようスミス氏に懇願したも同然であった。21年1月6日の連邦議会襲撃事件の反乱は、暴徒数百人が合法的に訴追された。トランプ氏が実際に法を犯したかどうかにかかわらず、その日の死傷者の道義的責任を問われることは間違いない。

しかも、スミス氏がキャノン判事を引き当てたのが運の尽きだった。キャノン判事はよく言えば過剰なまでに慎重で、悪く言えば能力不足で、彼女を任命したトランプ氏に有利な判断をする可能性さえある。

 トランプ氏が刑務所に入る可能性はまだある。トランプ氏が選挙に負ければ、残る3件の訴訟は一気に進むだろう。しかし、この起訴はトランプ氏の選挙見通しを改善させたようで、ハリス氏に勝てば、現職大統領を起訴することの難しさから、起訴は確実に打ち切られるか、停止されるだろう。

このような事態の多くは予測できたはずであり、実際に予測されていた。ただし、学ぶべき教訓もある。一般的な懸念として、政治家に対する起訴は、際限のない報復起訴を引き起こす可能性があるということである。トランプ氏自身、民主党が自分を起訴したことに対する報復として、民主党を起訴すると発言している。しかも、将来の民主党大統領が、トランプ氏、その側近、その他の共和党議員に対して報復を行うことは容易に想像できる。

 この種の報復は各州に広がり、米国の政治をさらに激化させる可能性がある。大統領やその他の政府高官は、選挙に敗れた際に自発的に退陣して起訴されるリスクを冒すよりも、権力の座にとどまろうと画策するようになるかもしれない。そうなれば米国の民主主義は終焉(しゅうえん)を迎えるだろう。


立憲民主主義、存続の危機か

 この理論によれば、立憲民主主義が存続してきたのは、まさに政治家が政治的起訴の誘惑に抵抗してきたからにほかならない。この規範が確立されたのは200年も前のことで、さまざまな政敵に対する起訴が裁判所や世論の反対に遭ったのは、まだ記憶に新しかった英国支配のおかげでもあったといわれている。

 もちろん、この見解の問題点は、民主党が政治的起訴に着手するずっと前から、トランプ氏が政治的起訴を禁じる規範に違反していたことだ。16年当時、トランプ氏はヒラリー・クリントン氏を起訴すると約束し、それ以来、就任中も退任後も、そして彼自身が起訴される前も後も、彼は自分を裏切ったと考える政敵や支持者に対してまでも、起訴すると脅してきた。トランプ氏とその側近に対する今回の一連の起訴は、トランプ氏自身が引き起こした断絶の必然的な結果と見ることができる。

しかし、この件をもっとよく見る別の方法がある。トランプ氏に対する訴訟は、民主主義国家では政敵の裁判が極めて危険であることを示すにすぎない。というのも、被告側はいつでも形勢を逆転させ、検察が自分たちの政治的理由のために法制度を乱用していると訴えることができるからだ。


検察は、ささいな失策でも無視できない

 トランプ被告は、政府は権力を乱用しがちだという有権者の自然な疑念と、世論の高まりから利益を得ている。これらすべてが、裁判所が検察のささいな失策をも無視できない状況をつくり出している。

 ウィリス氏の恋愛関係は、同氏がトランプ氏以外の者を起訴していたら、おそらく明るみに出ることはなかっただろう。同様に、すべての事件の審理が遅々として進まないのは、司法制度に対する国民の信頼を守る責任を負う裁判官たちが、相応の注意を払っている結果である。彼らは、大統領選に立候補している被告をどう扱うかという、デリケートで前例のない問題に直面している。

 幸い、もしトランプ氏が当選したとしても、民主党指導部の半数と共和党議員の相当数の起訴を命じるという脅しを実行に移すことはおそらくない。仮に実行に移したとしても、自身に打撃を与える結果になるだろう。トランプ氏の裁判に教訓があるとすれば、民主主義国家における政治的訴追は、敵対者よりも権力者を傷つける可能性が高い、ということである。

(翻訳=月本 潔/アーキ・ヴォイス)


エリック・ポズナー(Eric Posner)
米シカゴ大学法科大学院教授
1988年米エール大学卒業、91年米ハーバード大学法科大学院修了。98年から米シカゴ大学法学部教授、2013年から現職。弁護士。22年まで米司法省の反トラスト法部門において顧問に従事。『How Antitrust Failed Workers』(オックスフォード大学出版局、21年)の著者

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